第10回 無料で楽しめる法廷ドラマ――アメリカの裁判所に行こう!

法廷から出て、ガウンを脱いだウイリアム・ヤング裁判官。司法教育に並々ならぬ情熱を持っている。

 ボストンで、すっかりハマッてしまった場所がある。ひとつはレトロで愛すべき野球場、フェンウェイ・パーク。そしてもうひとつは、海辺にそびえるビル、マサチューセッツ州の連邦地方裁判所だ。
 まとまった時間が空くと、私は迷わず地下鉄に乗って裁判所に向かう。野球場にはチケットを買わないと入れないが、裁判所ならタダだし、いつでもふらっと行けるからだ。
 「実際の裁判を取材して、来週までに記事を書いてくること」
 ニューズ・ライティングのクラスの教授にこう言われ、初めて連邦裁判所に足を踏み入れたのが昨年の秋だった。
 いかつい顔をした警備員のおじさんに、携帯電話とカメラを取り上げられ、ボディーチェックと荷物検査を受けてやっと中に入れる。悪いことしていなくても、何となく後ろめたい気分にさせられる場所だ。
 しかし、そんな居心地の悪さを差し引いても、おつりがくるぐらい、私は裁判にハマッてしまった。

 「裁判所は初めて? 今日はマフィアのボスに判決が下る日だよ」
 裁判所の資料室でその日の裁判の予定表を眺めていると、ハーバード卒のシナリオライターだというお兄ちゃんに声をかけられた。
 「キミもラッキーだね。初日にこんなすごいヤマに当たるなんて」
 そう言われ、訳もわからず彼の後を追い、法廷の入り口に着くと、そこにはイタリアンスーツを着込んだ、ホンモノのマフィアのおじさまたちが並んでいたのだった。まさに、ゴッドファーザーの世界だ。
 「お嬢さん、お先にどうぞ」
 イタリアンスーツの胸ポケットに真紅のスカーフを入れて決めているひとりが、すっと法廷のドアを開けてくれた。
 裁判官が、手錠をかけられたボスに判決を言い渡すのを、じっと黙って聞く「ファミリー」たち。ペンをひたすらノートに走らせるのは、ボストングローブ紙の記者だ。傍聴席には多くの一般市民。法廷映画顔負けのドラマがそこにあった。
 アメリカの裁判所は、一部の例外を除き、全ての法廷が一般市民に開かれている。だからふらっと出かけて、どの部屋に入って傍聴しても全くかまわない。手当たり次第にいろんなケースを傍聴するうちに、私はある裁判官の発言と態度に惹き付けられた。何よりもわかりやすく明確な話し方。そして判決の内容を告げ、説明する口調の温かさが際立っていた。
 ウイリアム・ヤング裁判官。この裁判所の主任裁判官だ。靴の中に爆弾を仕込み、航空機を爆発させようとしたリチャード・レイドに終身刑を言い渡したひとでもある。
 「アメリカに制裁を加えるために自分はアラーの名において戦う」と言うレイドに、ヤング裁判官は「私たちはテロリストとは交渉しない。私は本物の兵士を知っている。あなたは兵士ではなく、テロリストだ」と毅然と言い放った。

ヤング裁判官のオフィスからの眺めはボストンで一番かもしれない。
 「私は法を通して人々を教える、教育者だと思ってるんですよ」
 インタビューの席で、ヤング裁判官はそう言った。そして、なぜ米国は陪審員制度を取っているのか、その利点は何なのかをたずねると、こんな答えが返ってきた。
 「考えてみてください。私は白人で、男性で、ロースクールを出ています。今まで逮捕された経験もありませんし、警官に殴られたこともありません。コカインがどうやって加工されて、運ばれてくるのかもよく知りません。そういう私がどんなに自分と違う立場の人の背景や犯罪を犯した人の状況を想像しようとしても、限界があると思うんですよ」
 なるほど。
「だから、私が一方的に全てを決めるのではなく、老若男女、さまざまな人種の、多様なバックグラウンドを持った市民たちが、それぞれの責任において、民主的に判断を下すという方法が一番フェアだと思うのです。この陪審員制度は、私たちの国、アメリカの民主主義の原点です」
 ヤング裁判官によれば、この陪審員制度、実はいま危機に瀕しているのだという。時間と手間を省くために、多くの場合、弁護士たちは、陪審員の前での裁判を極力避けようとし、実際に陪審員が判断するケースは民事、刑事の両方において急激に減ってきているという。
 「陪審員になることは、多くの市民にとって、連邦レベルの政治に直接参加できる唯一のチャンスなのに、その機会が激減している。つまり、それはひいては司法の力が弱まってしまうということでもあるんです」

 市民に開かれた法廷で、市民が市民を裁く。私がアメリカの裁判にたまらなく惹かれてしまうのも、やっぱりこの点だ。陪審員12人のそれぞれの表情を見ながら、自分だったらどう判断するかを考える。すると、傍聴しているだけなのに、次第に裁判に直接参加しているような気分になるから不思議だ。
 「人民の人民による人民のための政治」。とりあえず、海辺にそびえる裁判所では、昔習ったこのフレーズの理念はまだ生きているみたいだ。