第16回 炎のルームメイト、クン・リン博士 世界に羽ばたく

私たちのアパートの前でポーズするクン・リンと彼女のダーリン、そして彼女のお母さん。家族の卒業式に出席するため、ボストンには、いま世界中から家族がやってきている。

 ある日、アパートの鍵を開けると、見知らぬ女性が立っていた。
 素足にはナイキのスリッパ。そしてTシャツには巨大なサイケデリック色のピースマーク模様。ショートカットの髪がビンビン立っている。
 「ハーイ! 私の名前はクン・リン。スティーブからあなたのこと聞いてます!これから1カ月よろしく!」
 一言話すたびに、上半身が踊るようにゴム毬のように弾む。なんだか、橋田壽賀子のドラマに出てくる登場人物みたいなエネルギーだった。
 そういえば、前に、ルームメイトのスティーブが「僕の叔母さんが台湾から来るけどよろしくね」と言ってたっけ。あれ? でも、1カ月……って。せいぜい1週間ぐらいの滞在のはずだったんじゃ……???
 「ハロー」から始まって20分間、機関銃のように話し続けたクン・リンがトイレに行った隙に、私はスティーブの携帯の番号をプッシュした。彼は台湾からの留学生。マサチューセッツ大学でコンピュータ・サイエンスを専攻している4年生だ。
「スティーブ、あなたの叔母さん来てるけど1カ月の滞在って……?」
「いや〜ミホ、ごめんごめん。僕もそんなに長い滞在とは、知らなかったんだよ。博士論文の最終試験があるんだって。悪いけど、しばらく二人で仲良く暮らしてね〜」
 「ちょ、ちょっと待って。その間、君はどこに住むのよ!?」
 ここにあるのはスティーブと私の2部屋のみ。ゲストルームはない。
 「僕なら友達の所に泊めてもらうよ。何とかするから大丈夫だよ〜」
 そして、その日から、スティーブの部屋は、彼の叔母さん、クン・リン先生の城と化したのだった。

 深夜2時のシャワーと耳栓
 ボストン大で言語学の博士号を目指すクン・リンの辞書に「就寝」という言葉はなかった。部屋には一晩中、灯りが煌々と輝き、コンピュータに論文を打ち込む音が響く。時には中国語で電話の向こうの誰かと大声で話す声が聞こえてくる。

ドラゴンの年に生まれたクン・リン。ボストン大のスクールカラーの赤は台湾では最もおめでたい色だそうだ。ガウンの腕の部分には、博士号を示す3本線が入っている。

 彼女の猛勉強ぶりにひらすら感心していた1週間が過ぎると、夜中の2時にシャワーを浴び、パタパタとサンダルの音をさせて歩きまわるクン・リンの「音」に、私は次第にヘロヘロになっていった。
 「深夜ぐらい、寝かせてくれ〜!」
 夜中の2時にワンタン・ラーメンを作るクンリンに向かって、私は何度、布団をかぶってそう心の中で叫んだだろう。私の部屋にはドアがなく、廊下とはカーテンで仕切られているだけ。おまけに1つしかないトイレは、私の部屋のすぐ前だから、彼女がトイレに行く度に、飛び起きてしまうのだ。
 「あんた、目の下にクマができてるよ。どーしたの?」
 ニューズ・ライティングのクラスメート、ブランディが言った。私はクン・リンが夜中に浴びるシャワーの音で、耳栓をしても全然眠れないのだ、と言った。
 「そりゃ、はっきり彼女に夜中にシャワー浴びないで、って言うしかないでしょ」とブランディ。
 そうなのだ。クン・リンが、アメリカ人の若いルームメイトだったら私はとっくの昔にそう言っていただろう。しかし、彼女は博士論文提出と、口頭試問のため、教鞭を取っている台湾の大学を休職し、政府からの奨学金で、海を越えてボストンにやってきたのだ。故郷を背負い、湯気が出るぐらい、必死に猛勉強しているのである。そんな彼女に、一体、何が言えるだろう。
 「あと3週間だ」、「あと2週間」。私は心の中でカウントダウンしながら、耳栓を耳に突っ込むのだった。 

 夜中のバサバサ
 ほとんど宿敵と化したズーコフ教授に教室でやりこめられたある日、どっと凹んだ気持ちで部屋に帰り着くと、クン・リンの部屋から、「バサバサ」という妙な音がした。
 またか……。もうどんな音がしても驚かなくなっていた私は教科書のページを捲っているらしいバサバサという音を一晩中聞きながら、ぼーっと窓の外の朝焼けを見ていた。 そして、朝、彼女の部屋の前を通ると、何と、本棚の上に灰色の小さな鳩がちょこんと座っているのを発見した。バサバサ……。じゃ、あの音は、羽のこすれ合う音だったのか!
 「このボーイ、窓から入ってきたの。鳩は台湾では幸運の印なの」
 クン・リンはそう言いながら、鳩にプラスティック容器で水をやり、絞った蜜柑の汁をあげていた。その途端、なぜか、ふっと気が緩み、お腹の底から笑いがこみ上げてきた。クン・リンもつられて吹き出し、きょとんとする鳩を前に、ふたりで転がるほど笑った。
 1カ月後。クン・リンの卒業式に出席するため、今、スティーブの部屋にはクン・リン、彼女の夫、そしてクン・リンのお母さんの3人が、川の字になって寝泊まりしている。 相変わらず全然眠れないが、「ドクター」クン・リンの晴れ姿を見たらそれも、ま、いいやと思えてきた。

近所のスタジアムで行われた卒業式。あいにく雨だったが、学生にとってはやっぱり最高の晴れ舞台。