第34回 「水牛肩」と「トイレの紙」。天才たちのラボ、潜入記録
蔦の絡まるシカゴ大学校舎。アカデミック色の濃い重厚な雰囲気のキャンパス。
 科学&医療取材班の一員として過ごして早1カ月。科学好きな学生たちの中で、ど素人なのは私ひとりだけ。よって、日々、場違いな質問を連発し、その度に、取材相手のドクターや科学者を驚愕させてきた。

 「ぜんそくって伝染しますか?」
 「で、ボトックスの注射の中に入っているのは、何なんですか?」
 しかし、そんな冷や汗に満ちた日々とも、今日限りでオサラバだ。
 担当のレフ教授の紹介で、シカゴ大学病院の研究室に、数日間自由に入り浸ってプラクティカム(観察&お勉強)する許可をもらえたのだ。

 シカゴ大学と言えば、石を投げればノーベル賞受賞者に当たると言われる研究の最先端。そんな超優秀な研究者たちに何日か囲まれていれば、自動的に私の科学偏差値も、ぐ〜んと上がるに違いない。

 「ふーん、君はジャパニーズか」
レフ教授の旦那さんの、アラン・レフ教授のオフィスに挨拶に行くと、ジーパンにセーター姿のラフな恰好で彼はこう言った。
 「ジャパニーズの英語って、どうしてアジアの中で一番ヘタなの?」
 う。油断してたら、いきなりボディーブローが飛んできた。

 喘息や結核について研究しているレフ教授のラボには、アジアからの留学生が多く、フィリピンやタイからの学生の英語は、日本人の英語に比べて格段に上らしい。
 「日本人が英語が苦手なのは、脳の機能とは全く関係ありません。サムライ時代の鎖国が元凶なのです」。そう必死で自己弁護すると、教授の関心はすでに政治に飛んでいた。
 「僕はね、ブッシュが大っ嫌いなんだ。彼に投票などしなかったし」

 教授の机の上にはクリントン人形が鎮座し、壁には『ニクソンを恋しく思う日が来るなんて、想像したことすらなかった!』というサインが掲げられている。もろにわかりやすい「反・ブッシュ」グッズだ。
 教授はブッシュがいかにアメリカを世界中で孤立させ、その結果、ヨーロッパ、特にフランスやドイツの医学生や科学者たちがアメリカに来なくなってしまったを力説した。

 「僕だって、数年前はヨーロッパにしょっちゅう出張があったのに、最近はめっきり機会が減っちゃったし。これもブッシュのせい。で、外国で、思い切りブッシュ批判の演説をすると、これが大受けなんだよ」
 気づけばブッシュ批判で盛り上がり、ほとんど何のために病院にやって来たのか忘れるぐらいだった。
 「科学に国境はない。でも科学者と科学者の間には国境が立ちはだかる。好むと好まざるとに関わらず。これが現実でもあるんだよ」

アメリカ人のアニサ。公衆衛生の博士号を取得中。研究室の「パワー・ポリティクス」を図解して説明してくれた。
 
別名「踊るリサーチャー、ジョン」。実験中の彼の動きの速さは、まるで運動選手のように俊敏だった。
 そこで教授は立ち上がり、研究者チームを紹介してくれた。
 フィリピンから来たアンジェロ。オーストラリアからのジョン。中国から移民してきたズー教授。そしてアメリカ人のアニサ。さらに一番の古株のフィリピン人のニルダ。

 ざっと見回しただけでも「ここは国連か?」と錯覚するほどインターナショナル色濃厚である。
 「ちょっとこのパイパー見て」
ビーカーを持ち、俊敏に動いて次々と実験をこなすジョンが、タンパク質の構造について説明してくれる。
 「パイパー」が「ペイパー」のオーストラリア訛りであることに気づいたのは夕方になってからだった。

 さらに実験中、タガログ語で会話するアンジェロとニルダ。
 「ちょっと、ミホ。マウス実験の内容については新聞に記事として書かないでね。ほら、いろいろうるさいこと言う人がいるから」
 実験台のマウスの写真を嬉々として撮っていたら、ベテランのニルダにとしっかり釘を指された。

 「いろいろうるさい人」とは動物愛護協会系の人々だろう。しかし、今やマウスを使った実験をしない大学病院など果たしてあるのだろうか? それにしても、現場の研究者がこれほどまで動物実験について神経質になるとは、ちょっと意外だった。科学とポリティクスの切っても切れない関係をまた思い知らされる。

 中国人のドクター・ズーはステロイドの副作用を説明するのに紙に「水牛肩」と漢字で書いてくれた。
 「すいぎゅうかた?」
 「そうです。筋肉が異常に盛り上がって水牛の肩みたいになりますね」
 おお、なるほど。漢字って便利だ。

 彼は私のノートに「血吸虫病」とか「好酸球」とか色々書いてくれたが、後で読み返すと何のことだかさっぱりわからない。
 「私たちアジア人の医師が、一番苦労するのは英語です。実験の内容では負けなくても、英語で差がついてしまうこともあるんです」
 ドクター・ズーは言う。きっと今まで相当苦労してきたのだろう。
 「わかります!わかります!」
私は思わず力を込めてそう言った。

 このドクター・ズー、何と19歳の時に中国で医師免許を取ったのだそうだ。私が「ズーさん、あなたはもしや天才……、ですか?」と聞くと、彼は「いえ、そう難しいことでもないんですよ」とさらっと言った。

研究室にあったゴミ箱。いかにも危なさそうな表示で最初は近づくのが怖かった。
 そして、実験室に戻るとみんなは「トイレでトイレット・ペーパーを使う前に、掌の中でクシャッと丸めてから使うか、それとも丸めないまま使うか」の議論で盛り上がっていた。ちなみにジョンは「丸める派」でアニサは「丸めない派」だった。

 数日後。研究室で学んだ新しい科学の知識をレポートにして提出することになり、ノートを広げた私は焦った。メモとして判別できたのは以下の言葉だけだった。
 「ブッシュが大嫌い」
 「水牛肩」
 「トイレットペーパーを丸める」
 「西安医科大学」

 天才・秀才に囲まれて過ごしたと言うのに、私の科学偏差値に化学変化は起きてくれなかった。