第5回 「うああああああ!!」
 「一応、マネーのサイトなので、時々はおカネ絡みのネタが出てくるとウレシイです」――数日前、このコラムの担当編集者N氏からこんなメールが届いた。
 ふーむ。おカネねえ……。1日4ドルで生きている超貧乏院生の私には、全く縁がないモノの筆頭だなあ……と、他人事のようにボンヤリ考えていた。そう、つい昨日までは。
 しかし、今日は違う。N氏の言葉が呼び水となったのか、正真正銘100%カネ絡みの事件が起きてしまったのだ。
 白昼堂々、しかも院の教室内で、財布を盗まれてしまったのである。
 現金85ドル。アメックス、ビザ、マスターのカード3枚。銀行のキャッシュカード2枚、米国運転免許証、そして国際テレホンカード、今月立て替えた取材費のレシート。これらが入った財布が、今から6時間前に忽然と私のバッグから消えてしまったのだ。
 うああああああ!!もう発狂寸前である。

盗難事件のポリス・リポート。事件の24時間後に、ボストン大学内の警察所で発行してもらった。いわば盗難証明書で、このコピーを各社クレジットカード会社、銀行に送って、自らの潔白を証明し、被害額を補填してもらうのが一般的だそうだ。

 今日の午後、院の2階のコンピュータ・ラボでリサーチをしている最中に、携帯が鳴った。取材依頼をした相手からの電話だった。待ちに待った相手だったし、是非コメントが欲しい。しかし生憎この教室内は電波の入りが非常に悪い。相手の声がとぎれとぎれにしか聞こえない。私は慌てて携帯を持って教室から廊下に出た。3分ほど話して、メモを取ってから、教室に戻ってきた。
 ふー、やれやれ。そしてふと何気なくバッグの中を見ると、あれ、さっきまであったはずの財布が……な、ない!
 や、やられた。一瞬にして頭の中が真っ白になった。『年末は盗難が増えるので、気をつけましょう』、そんな貼り紙を構内のどこかで見たのは確か先週だった。
 中国人クラスメートたちのアパートに泥棒が侵入し、ラップトップ・コンピュータ4台がごっそり盗まれたのはわずか2週間前。そして、うちのアパートの玄関に『年末に怪しい人物を見たら絶対中に入れないこと』と貼り紙がされたのは昨日だった。これまでさんざん注意してきたのに、携帯に気を取られていて、隙だらけだった。ああ、馬鹿馬鹿!!
 誰でも自由に出入りできるウチの校舎は、泥棒にとってほとんどパラダイスなのだった。
 泣きそうになりながら、一階の事務所に走る。「財布を盗まれたんです!」と叫ぶと用務員のおじさんが「すぐポリスに電話だ」といい、学内ポリスの連絡先を教えてくれた。ジャーナリズム学科の職員も飛んできた。
 10分後、警察官のブライアン氏が教室に到着。呆然とする私に、彼はいった。「まず女子トイレに行って、ゴミ箱を探すんだ! 現金が抜き取られて、財布が捨てられている可能性が高いから」。
 慌てて女子トイレに駆け込み、すべてのゴミ箱を漁ったが、財布はなかった。その間にブライアン氏は男子トイレをチェックしてくれたが、やっぱり何も出てこなかった。
 「この教室にはキミだけがいたの?それとも誰か他にいた?」とブライアン巡査が聞く。
 教室の隅で白人青年がリサーチしていたのは見た覚えがある。その後、背の高い黒人青年が部屋に入ってきて、出て行ったのも覚えている。だが、私が教室の外に一瞬出た時に、誰が教室にいたかは全然覚えていない。
 「まずクレジットカードを止めるんだ」
 呆然としている私に巡査はいった。そ、そうだ、止めなくちゃ。3枚のクレジットカードすべては日本で発行されたものだった。どうしよう、日本のカード会社の連絡先がわからない。カード番号の控えも連絡先のメモも手元にない。教室のコンピュータで検索しようにも、日本語ソフトが入ってないから文字化けだらけの画面だ。しかも、0120で始まるサービス番号には海外からはかけられないのだ。
 しょうがない、カードは後回しだ。震える手でまずアメリカの銀行のトールフリー番号をプッシュする。「ローンをご希望のお客さまは1番を押してください……」。間延びした録音メッセージが延々と流れ、いつまで経ってもオペレーターにつながらない。ああ、早く人間を出してよ、人間を……!!!!
 やっとつながったと思ったら「本人確認をしますので、最後に入金した金額と日付を教えてください。それがないとダメです」。
 そ、そんなこと覚えちゃいないよ〜!!
 母の結婚前の旧姓まで告げて本人だとやっと確認してもらい、20分以上かかって銀行のカードを止めた。次は日本の実家の電話番号をプッシュする。日本は深夜4時過ぎだが、緊急だからこの際我慢してもらおう。
 「な、なんだ、こんな時間に!」
 父の声だ。
 「お財布、盗まれたの!」
 「ええ?まったく、何やってんだよ〜」
 寝起きで機嫌が悪い父が説教を始める前に、とにかくカード会社に連絡してくれるようひたすら頼み込み、電話を切った。

ポケットに入れてあったため、無事だったキャッシュ、合計10ドル25セント。これで新年のお餅は買えるのか?
 「可哀想に。あんたで3人目だな。相手はプロだよ。クリスマス前に稼ぐヤツらなんだ」
 通りかかった用務員さんがそういった。
 無一文のすっからかん、しかも身分を証明するIDもすべて盗られた。自分のマヌケぶりに涙が出そうだ。これで、海外では命の次に大切なパスポートまで盗られていたら、確実に発狂しているだろう。
 学生科の美人ディレクターのマイカは、テキパキと臨時の500ドルを私の学内口座に振り込んでくれた。
 「私も昨年、ちょうど同じ時期にオフィスにあったバッグを丸ごと盗まれたの。気持ちわかるわよ。本当に年末ってSucks!(やってらんないわよね!)」
 今まで、ほとんど話したこともなかったマイカ。きっと彼女は私の顔も名前も知らないだろうと思っていたのに、こんな風に助けてくれるなんて、なんだか鼻の奥がツンとしてきた。貯金はすべて学費に消え、昨日銀行から引き出したばかりのなけなしの85ドルももうない。まさに文字通り、ビンボーのどん底。そんな時だからこそ優しさが身にしみる。
 自宅に戻り、アメックスの緊急番号に連絡すると「あ、104ドルがウォール・グリーンで引き落とされていますね」といわれた。
 ウォール・グリーンは全米に支店を持つドラッグストアのチェーンだ。店舗はボストン中あちこちにある。犯人は、特定しにくい場所を選んで、すかさず私のカードでキャッシングをしていたのだ。怒濤のように押し寄せる不安。焦って銀行にも再度電話してみる。
 「あれ、今日の午後、バージニアで1ドルチャージされてますね。それにあちこちのATMで現金を引き出そうとした経歴があります。バージニアには行きました?」
 バージニア?ということは、犯人は財布を盗んでから、銀行カードが止められるまでのわずかな時間にマサチューセッツ州のボストンから他州のバージニアまで移動したわけ?
 「ウォール・グリーンでまずトライしてから、バージニアの足がつきにくいガソリンスタンドのATMで現金を引き出そうとして、ブロックがかかり、手数料の1ドルだけがチャージされたんですね。まずプロですよ」と銀行員。
 「足跡を辿れるもんなら辿ってみな」。そんな犯人の高笑いが聞こえるようだった。
 Life Sucks!